こんにちは、hanaです。
前回の記事では私の幼少期のお話をさせていただきました。今回は小学校に入学し、お友達の家庭との違い気づいた時のお話や、中高生の多感な時期に感じていた私の心境をお話させていただければと思います。
この頃、父は仕事が忙しく家にいることがほぼありませんでした。そのため、子育てや家事の負担は全て母。典型的な亭主関白な父でしたので今回のお話では思春期の私と母のお話をさせていただきますね。
前回のお話
父と母は聴覚障害者。私はコーダ。母から受けたたくさんの愛情 〜幼少期編〜
〜小学校入学〜星の金貨ブームで手話が特技となる
小学校に上がり、入学式や授業参観がある度に手話通訳を呼んで参加していた両親。周りはお父さんやお母さんだけなのに、我が家だけ親戚みたいな人が一人いて手で会話しているので注目の的でした。今思い返すと少し7歳ながらに恥ずかしかったことを覚えています。
幸い両親の耳が聞こえないことでイジメにあったことはないですし、なんなら褒められる方が多かったのです。「手話できるのすごいね」と言われても、幼い頃から褒められていた私にとっては引き目に感じることはありませんでした。当時は24時間テレビやドラマ“星の金貨”などでも手話が多く取り上げられるようになった時代だったので、授業の一貫で手話を取り入れた音楽の授業などもあり、手話は私の特技となりました。
〜中学年〜見ず知らずの人からの視線が気になって手話や両親の障害を恥じているようになった
友達と遊ぶようになり、私の両親は友達のお父さんやお母さんとは違うんだ。という確信を持ちました。
しかし、幼い頃から手話サークルに通っていた私にとってはそのことに対して負い目を感じることは全くありませんでした。
ただ、外食や買い物先で両親の障害を知らない見ず知らずの人たちに後指を刺されることはとっても不快でした。私が手話をすると不思議に見てくる周りの子供たち。なんで笑われるんだろう。なんでじっとこっちを見てくるんだろう。と恥ずかしくてつい「手話をやめて!」と言ってしまったこともありました。
また、聴覚障害者は自分の声の音量調節が困難なため、エレベーターの中や人混みの中でとても大きな声で会話しだすことがあります。本人は普通の音量と思っていますが大音量なので注目を浴びてしまいます。そんな両親をみて恥ずかしい。と感じ、「大きな声出さないで!なんで大きな声出すの!」と責めてしまうこともありました。
その度に母は「ごめんね。自分の出してる声が聞こえないから、わからなかったの。」と謝っていました。
両親に対して“恥ずかしい”と感じて怒っている自分、母が悪い訳ではないのに謝らせてしまったというような罪悪感に似た気持ちを抱いていたことを覚えています。
中高生で精神的にも未熟だったこともあり両親を責めてしまうこともありましたが、歳を重ねるにつれて“恥”という感覚はなくなっていました。
もし同じようなことを言われてしまった親御さんがいらしたら、
あ、この時が来たのだな。と悟ってあげてください。
〜中高生〜母を傷つける暴言を吐いてもハグで包んでくれる大きな愛情
中学生になると部活も本格的に始まり、両親と過ごす時間も減りました。その一方で、女子特有のイジメに合うことになった私。(両親が障害者であることは全く関係ありません)
母に心配をかけたくないと相談することはありませんでした。
進路に迷った時もそうです。自分の中で引っかかる心のモヤモヤを相談したいけれど、どう手話で伝えればいいのかわからないというイライラから反抗期感溢れる態度で母に辛く当たっていたこともありました。
その度に母は「あなたの気持ちを理解してあげられなくてごめんね。」と言ってくるのですが、それが更に私を心を苛立たせていました。
そんな時、絶対に口にしてはいけない言葉を母に発してしまったのです。
「なぜママは私の言いたいことを理解してくれないの!ママの子供なんかに生まれて来るんじゃなかった。」
その時です。普段怒ることのない穏やかな母が私を引っ叩き、その場で泣き崩れたのです。
私は“しまった!”と思いましたがイライラは収まらず数日、口も聞かない状態が続いたこともありました。
私自身、子供を産んだ今だからわかりますが、そんな言葉を向けられた日には絶望です。
数日後に母に謝罪した時には、いつもの優しい母でハグして仲直りをしていました。
もしお子様が反抗期などで悩んでる方がいらしたら、中高生になったって子供は子供ですから、お母さんの愛情溢れたハグで包み込んであげてくださいね。
高校卒業後の進路について
私は大学付属の高校に通っていました。高校2年生になると自分の進む道をある程度決めていかなければなりません。しかし我が家は障害者家庭。障害者手当が支給されてるといえど、両親は障害者なのでとても安いお給料で働いていました。それでも我が家は貧乏という暮らしでは幸いなかったものの、他の家庭よりも家計に苦しんでいたことは私も重々承知していました。
高校卒業後の進路については高校受験の頃から「金銭的にも大学にはいかせられない」という条件で入学したこともあり、同級生達と同じ大学へ進学したくないというようなプライドに似た感覚になりました。
一方で私は音楽や音楽イベントが好きだったことから、日に日に音楽に関わる仕事に就きたいと思うようになっていました。
母にそのことを伝えると、専門学校であれば2年間だし、奨学金を借りて家から通える距離の学校であればOKと承諾を得ることができました。
母も音楽が好きだったから、私が音楽に関わる道に進んでくれたことはとても嬉しいし、自分の好きな道に進んで欲しいと背中を押してくれたことにはとても感謝しています。
こうして幸い私は奨学金を借り、アルバイトをしながら専門学校へ通わせてもらうことができました。
成績が優秀であれば学費が無料になる大学もありますし、奨学金を無利子で借りることもできます。
とは言え、奨学金はローンなので卒業後に返済する必要はありますが、もし家計を気にして進学を諦めるような方がいらしたら諦めずに進学できる道を探してみてくださいね。
まとめ〜母の夢・希望〜
中学生のころに母は聴力を失ったことから、様々のことを諦めてきたようです。進学、就きたい仕事、交友関係、恋愛などなど‥。
そう考えると、障害という大きな壁があるだけで希望や夢を捨ててしまうのは勿体無いな。と思います。
昔に比べて障害者への理解も深まってきていると思いますし、いろんなことにチャレンジしやすい世の中にはなってきていると思います。
現に母も得意としていたお裁縫を活かし家庭科の高校へと進み、服飾関係の仕事に就いたそうです。
父にやや強引に連れていかれた手話サークルではお友達もたくさんでき、世界が広がったと言っていましたし、今でもたまに仲間たちと飲みにいくそうです。
また元々専業主婦だった母ですが、家計も苦しかったこともあり、私が小学校低学年の頃からヘルパーのパートに出ていました。しかも、ヘルパー2級の資格を取得したりと幼いながらに母のことをとても尊敬していました。
与えられた人生はみなさん平等ですから、良いも悪いも自分次第。
興味のあることがあれば、母のように障害を恐れず周りの方に手助けをしてもらって、夢や希望に少しでも近づけれればいいなと願っています。
肝心の母に関しては、このことについてこう言っていました。
夢や希望を捨ててきたことは多いけれど、何よりもあなたたち二人のママになれたことが一番の幸せ。
次章では、成人し親元から離れて暮らすうちに気づいていく手話のメリットや、自分自身が子供を産んでからの両親との関わり方などをお話させていただければと思います。
コメント